『停電の夜に 』 ジュンバ・ラヒリ 

強く心を動かされて、泣いたり、笑ったり、怒ったり、という、そういう本ではないです。
ドラマチックな事件がおこるわけでもないのです。
喩えていえば、ろうそくの火が、わずかな風にゆらぐような…
描かれているのは日常のなかの小さな出来事とそれに関わった人々の心のかすかな揺れなのだけど、
こういう揺れはやがて収まって、なんでもなくおだやな日々が続くのか、また、この小さな揺れを心のどこかに置きながら表面静かに暮らしていくのか、あるいはこういうものが寄り集まって何かぎくしゃくした感情に発展するのか、…
そんな小さな風の集合のような短編が九つ。

*すみません、ネタばれもあります*

この本、好きだな、と思ったのは、この短編集の、お話の配置のせいかな。
「停電の夜に」で始まって、「三度目の最後の大陸」で終わっているのが、よかった。

表題作「停電の夜に」
五夜続く停電の夜、ギクシャクしていた夫婦が、暗闇のなか、交代で、互いを裏切った些細な思い出を打ち明けあう。くらやみの中だから、語れるその小さな思い出は、不思議なやわらかいベールにくるまれて、却ってロマンティックに感じられる。夫の視点から語られるこのお話は、語られるほどに、やさしくなる。
それなのに、突然に裏切られるのだ。裏切られ、裏切るのだ。とても残酷に、とても静かに。
そして、泣く…
このふたりは二度と相手を(そして自分をも)許すことはないだろう。そして、この夜のことを忘れられないに違いない。あまりにも残酷だから。
なのに、なぜか、このラストシーンが暗くないのだ。読者であるわたしは、ちょっと離れたところから、ベール越しに爽やかで少しあまやかな香料をかいでいるような感じだった。
なぜだろう。
たぶん停電だからだ。暗いからだ。二人の醜い顔も涙も隠しているからだ。こんなに残酷なラストシーンになんて優しい幕をかけてやるのだろう、この作者は。

満たされない思いから、妄想を抱き、苦く傷つきながら、その自分をピエロのように感じられるのは余裕かな、と思ったのは「病気の通訳」

「ピルザダさんが食事に来たころ」は、10歳の少女によって語られる。
1971年、インド・パキスタンの戦争。この年のハロウィーンに、友だちの家で夜を過ごしたこの少女は、「この家では、テレビを見ないのだ」と気がつく。友だちの父親はクラシック音楽の静かな曲に浸っている。
インド移民である少女の家では、同じ時間にテレビをみている。、パキスタンからの留学生ピルザダさんといっしょに。
ニュースを見てるのだ。わずか1分足らずの「インド・パキスタン戦争」のニュースを息を詰めるように待っているのだ。
ちらりとかすめる異民俗の疎外感を、こういう描写で語るのだね、この人は。
ピルザダさんがくれたキャンディに寄せて少女はピルザダさんの家族の息災を祈る。幸せを祈ったその人たちは、彼らだけで幸せになり、そして、二度とあうことはない。自分のことも忘れるだろう。自分にできるのは、きっとキャンディをすててしまうことだけなんだ。
少女の気持ちにちりっとした小さな痛みを感じた。

「セン夫人の家」
さびしい少年が、耐え切れないさびしさと疎外感のなかで生きていくあるインド婦人と日々を過ごすうちに、自分のさびしさをいつのまにか克服していく。この婦人の孤独感の深さ。
少年は成長し、微力ながら彼女に手を差し伸べようとするのだが・・・ 少年の心が切なく感じられた
・・・
・・・

そんな物語が静かに続く一番最後に、「三度目で最後の大陸」という作品がきました。移民の夫婦。ほとんど互いを知ることもない、ちょっと離れたら妻の顔をきちんと思い浮かべることもできないという新婚のふたりが、距離を詰めていく、新しい大地になじんでいく、おだやかなきっかけとおだやかな時間。
(作者の両親がモデルかな、とちらっと思いました。)
このふたりにもきっと小さな風が吹いたはず。それでも、消えなかった炎。静かに静かに燃え続けるろうそくの炎の少し明るいのがいい。最後にこの作品を読めたのもいい。