家のなかにたった一本しかないおとうさんの傘。しかも特別な、世界でたった一本しかないかさ。この傘が盗まれた。 キム・チュウは、かさどろぼうを追いかけて、初めて電車に乗り、フェリーに乗って、チャイナタウンの外へ出ていきます。 拾った硬貨が幸運の硬貨だと信じて。この硬貨が、盗まれた傘のところへ連れてってくれると信じて。 はじめてひとりで乗る電車、フェリー。駅。 見慣れない風景、人々。 小さな冒険だけれど、なんとどきどきすることか。 キムの、家族を思う素直な気持ち、責任感。 こういうものがすがすがしい。 途中から合流する親友のメイと息のあったコンビが楽しい。 時間は夕方。仕事帰りの人々が疲れて家路につく時間。 だれにとってもあたりまえの、ありきたりの、普通の夕暮れ。 ここに、冒険の決意を固めて、ポケットの中のコインをにぎりしめて、どきどきしている少女がいることをみんな知らない。 きっとこの群集のひとりにわたしがいる。夕飯の献立やら、明日の予定やらを考えたり、ただ、ああ疲れたと思いながら、家路を急いでいる。 でも、記憶のはるか底のほうに眠っている小さな冒険の思い出。初めてひとりでバスに乗ったときのこと。初めて子どもだけで映画を見にいく事を許されたときのわくわく。 友だちに借りた本を夕立の日にぬらしてしまったこと… キムと最後まで行動を共にしながら、そんないろいろな子ども時代のどきどきが、蘇る。 爽やかなラストシーンが雨上がりのよう。 最後にキムの話に耳かたむける家族の笑顔が好きだ。 キムは大きくなる。やがて、このお話は彼女の記憶の奥に追いやられていくのだろう。 ふと思い出しても「ああ、そんなこともあったかもね」とくすっと笑っておしまいになってしまうかもしれない。 でも、このラストシーンの「爽やかさ」はキムのこれからを照らしてくれそう。事件そのものを忘れてしまったあともきっと。 子どもの日の、どきどきする特別な夕方の冒険。 気持ちがいい本です。 |