『指輪物語 追補編 』 J・R・R・トールキン

指輪の旅も本当に終わります。
感動の余韻にもう少し浸りたい、また、興奮をゆっくりとクールダウンするつもりで、追補編を手にとりました。

これは、つまり、資料集なのですね。
この本を手にとった途端、しまった、と思いました。
本編を読んでいるときに、この本を傍らに置いたら、さぞや役にたったであろうに。
たとえば、固有名詞便覧。登場人物名、地名、本編の読書中、こんがらかってどれほど大変だったことか。こういうのがあると知っていれば!
また、主要人物の家系図や、各年代の年表も、ちらちら眺めながら読書できたら、より、イメージがふくらんだであろう、と、ちょっと残念でした。

その後、ホビット庄が、王に守られながら、独自の静かな変わらぬ日々が続いたこと、また、サム、ピピン、メリーが、それぞれに、平和に暮らしたこと、サムの娘のことなど、読むのは楽しかったです。

そして、改めて、何よりも平穏な生き方を好み(パイプ草や少しばかりのビールを愛してね)、故郷をこよなく愛するホビットだからこそ、指輪の力に抗いながら指輪所持者として旅を続けることができたのだ、と思い、無量の感を一層深めました。あらためて、本編の中のサムのことばが蘇ります。
  >「おらたちはまたなんちゅうお話の中にはいっちまったことでしょうね、
   フロドの旦那?」

王なきあとのアルウェンのことが、心に残っています。…静かに心の隅に留めておきたい物語でした。

また、ガンダルフ
彼の来し方が書かれていたくだりを読み、「ああ、そういうことだったのか」と思いました。そして、本編の最後、彼の去り方を思いながら、こうして幕引くのだなあ、と、しみじみと思ったのでした。


そして著者ことわりがき。

  >この本を読んだ方の中には、    この本を退屈だとか、ばかばかしい、とか、    軽蔑すべきものだと思われたむきもあったようだが、
   わたしはこれに対して不平をいう筋合いはない。
   わたし自身、その人たちの作品、    あるいはその人たちが明らかに好んでいる作品に対して    同じ意見を抱いているからである。

…にやーっとしてしまった。それから、こんなことを言われていますよ。
指輪物語」に対して、いろいろな批評に対して、ただ一点だけは受け入れられる意見があるそうなのですが、その意見とは、

  >この本が短すぎるということである。

さて、わたしも旅から帰ってきました。いろいろな忘れられない人たちに出会い、いろいろなものを見て、さまざまなことを思った長い旅でした。こういう本はそうそう何度も読めるものではないと思います(わたしには)。それでも、きっとしばらく経ったらまた手にとるだろうと思います。何度も何度もこの旅の余韻を確認して、新たな発見をするために。

もういっぺん、トールキンの言葉を書いておきます。
「この本が短すぎるということである。」