『指輪物語 (8~9)第三部 王の帰還』  J・R・R・トールキン 

王の帰還まで読了しました。
数々の見せ場があり、はらはらしたり、苦しんだり、涙を流したりもし、書くべき感想はたくさんあるはずなのに、今わたしは、書けないのです。
箇条書きのような感想をお許しください。
確かに、これは、読書というより、旅でした。指輪所持者とともにあり、日ごと重くなる指輪の重みを感じ、サウロンの燃える目をせなかに感じながらの旅でした。

わたしは、やはり、サムが一番好きでした。指輪の重みと魔力にじわりじわりと犯されていく主人を助けながら、最後まで一途に前を向き続けたサムでした。
二つの塔のおわりのほうで、サムが語ります。

  >「…おらいつも思ってたもんですだ。
   その冒険ちゅうもんは物語の中の華々しい連中が
   わざわざ探しに出かけてったんだろうとね。
   …まあ気晴らしみたいなもんといってもいいですだ。
   けど、本当に深い意義のあるお話や、
   心に残ってるお話の場合はそうじゃねえですだ。
   主人公たちは冒険をしなきゃなんないはめに
   落ち込んじゃったように思えますだ。
   ……さて、おらたちはどんな話の中に落ち込んじまったんでしょう?」

にっちもさっちもいかない暗闇の中で語り合うサムとフロドのまわりだけがぼうっとほの明るく思え、ここで、こんな話を始めたサムがいじらしくて、せつなくて、胸がいっぱいになるのです。
旅の目的地を目の前にして、サムが、持ってきたすべての道具を捨てる場面も忘れられません。

  >…どの品もどの品も
   かれにはどういうわけかとても大事なものになっていたのです。
   なかでもとりわけ手放しがたいのは料理道具でした。
   これを捨てることを考えると、目に涙があふれ出てくるのでした。

サムは、庭師でした。最後に種を撒いたのは、彼でした。育てたのも彼でした。
そして、「ゆきてかえりし物語」この物語の一番最後の行は「さあ、戻ってきただよ」
この言葉はサムの言葉でした。このお話のもうひとりの主人公は(本人は控えめに決して承服しないだろうけど、)密かにサムだよね、と思っています。


それから、ゴクリの最後の叫びが忘れられません。「いとしいしとおお」
このどうしようもない指輪の奴隷の叫びが哀れでした。

セオデン王の埋葬の場面も目に焼きついています。
王家の墓所である塚山は、「緑の芝と白い忘れじ草でおおわれました」
二つの塔」のなかで、ローハンへむかう途中ガンダルフが言ったことばがよみがえるではありませんか。

  >「ご覧!明るい瞳のように芝に咲く花のなんと美しいことじゃろう。
   この花は忘れじ草、
   …何故ならこのはなは四季を通じて咲き、
   死者の奥津城どころに育つからじゃ。
  見よ!わしらは今、セオデンの父祖たちの眠る陵墓のある所に来た。」

はじめてこの部分を読んだ時は何の気もなく読み飛ばした言葉であったのが、あとで、このような深い悲しみのなか、美しい響きとなって蘇ってくるのです。

レゴラスギムリの友情も心に残っています。
見かけも暮らし方も、闘いかたも、好むものすべてが正反対のふたり。
この世にはいろいろなものが住む。いろいろなありようがある。それらすべてをありのままに愛する作者の大きな温かいまなざし。もし、再び平和な時代がやってくるなら、二人で旅をしよう、というこのふたりの約束は、成就する可能性のきわめて乏しい状況下で、せつなく胸を打ちました。
今頃、このふたりは陽気な旅人となり、中つ国を気ままに歩いているでしょうか。


最後に、
灰色港から密かに出航した人たちは何を目指すのでしょうか。中つ国をあとにして。 せめて、航海の無事を祈りたいと思うのです。

どこかで、トールキンその人と会っているかもしれない。もしかしたら、この船にトールキンその人が乗っているのかもしれない、と思うのです。