『フリスビーおばさんとニムの家ねずみ』  ロバート・M・オブライエン

お話の主人公は、野ねずみのフリスビーおばさん。彼女は、未亡人で、フリスビーおじさん亡きあと、四匹の子供たちを「ひもじい思いをさせることなく」育ててきました。
冬のあいだ暮らしたブロックの家は畑にあり、春になってお百姓のヒッツギボンさんが畑を耕し始める前に(つまり家が壊される前に)安全な新しい家に引っ越さなくてはならないのですが、
折りも折、末っ子のチモシーが病気になってしまい、今無理に動かしたら死んでしまうという…

フリスビーおばさんの暮らしは、深刻ながらも牧歌的で、ピーターラビットのおかあさんを思い出します。
そういう話だろうと思っていたら…
ニムの家ねずみの出現です。
「ニムの家ねずみ」たち。彼らはヒッツギボンさんの家の地下に住んでいました。
そもそも、彼らは、「ニム」という研究所で実験動物として飼われていたネズミたちで、知能と寿命を異常に発達させられたスーパーネズミたちでした。
彼らはその知力で研究所を逃げ出して、ヒッツギボンさんの家の地下に彼らの街を築き上げていたのです。農家から電気を盗み、エレベーターまで持った文明の街です。 フリスビーおばさんのあとについて、この家ねずみの領域に(気持ちの上で)足を踏み入れたわたしは、おばさんといっしょにびっくりでした。カルチャーショック。SFチックな展開にくらくらします。これは、牧歌的なねずみの助け合いの話ではなかったのでした。
彼らはこの文明を捨てて森の谷間に引っ越そうと考えています。人間社会への痛烈な風刺。

  >「ねずみのレース」…つまり、どんなにはやく走っても、
   ゴールにつけないレースということだった。
   …ねずみのレースなんかじゃないじゃないか。人間のレースだ。
   かしこい家ねずみなら、
   そんなばかなことはぜったいするはずがないものな。」

そして、フリスビーおばさん一家の引越しとニムの家ネズミたちの引越しが、縦糸と横糸のようにかみ合って、物語を織り上げていきます。

決して協力することのない、接点さえありえない家ねずみと野ねずみが助け合う。
家ねずみがいいます。「あんたがジェレミー・フリスビーの奥さんだというなら話は別だ。」

このフリスビーおくさんがとてもすてきです。
ひとりで家庭を切り盛りして、子供四人「ひもじい思いさせることなく」育てる、それだけで、大した奥さんだって、思います。
でも、この人の魅力は読むほどに、際立っていきます。

からすのせなかに乗って空を飛びます。
だれもが尻ごみする危険のなかに自ら飛び込むことを志願します。
隙をついてねこと人間の足元も走ります。
危機に陥っても、心の端は開けておき、必要な情報をしっかりキャッチ。
そしてあきらめない。

でも、ほんとうは、控えめな安定した生活を望むふつうのおばさんです。
人間(いや、ねずみ)、いざとなったらスーパーマンになることも可能なんだねー、と思います。
しかも自信たっぷりわっはっはって感じじゃなくて、「やらなきゃならないんならしょうがないでしょ」って感じでがんばるフリスビーさん。
好きです、フリスビーさん♪

小いちごは「この本はあまり好きじゃない」と言いました。
ニムの家ねずみたちが読者に「さよなら」も言わずに消えてしまったのがさびしかったのかもしれません。
毒ガスなども、怖かったみたい。
やはり、これも、過去の人間たちの忌まわしい事件を想像させます。作者の怒りが伝わってくるようでした。
それにしても、こういう犠牲を価値あるものにしてしまう、「ひとりはみんなのために」的なニムの家ネズミたちの組織(?)が、わたしは今ひとつ、好きになれませんでした。(ジャスティンはどうなっちゃったのよう!)

ニムのほうのわりと度外れた(人間を出し抜いてあまりある知力の持ち主たちの)「引越し」に対して、フリスビーおばさんの「引越し」にはほっとさせられます。おばさんの冒険にも。
重ねて。好きです、フリスビーさん♪

静かな音楽が似合う余韻のあるラストは、しんみりと心にしみました。平和なラストシーン。