『こうちゃん』  須賀敦子・文 酒井駒子・画

この本の感想は勿体無すぎてわたしには書けない、と思っていました。
でも、皆さんの感想を読むにつけ、あーわたしも書きたい、書けなくても書きたい、感想と呼べなくても、メモ書きでも、自分の感じたことを書いておきたい、と思いました。

わたしが絵を描いていた頃、
師事した先生は、補色を大胆に使って描くかたでした。
たとえば、青を基調にした絵を描こうとするならば、最初にキャンバスのほとんどをオレンジ色に塗ってしまいます。
黄色を基調にした絵を描こうとする時には、まずキャンバスを紫に染めてしまうのです。
それからその上に少しずつ色を乗せていくのですが、仕上がった絵は、最初の色(補色)があちこちからほんのわずかに顔をのぞかせて、それが、全体の色を不思議に際立たせ、輝かせているのです。
わたしにとって、先生の絵の、このちらちらと顔をのぞかせる不思議な補色がこうちゃんのように思われます。

初めて「こうちゃん」を読んだ時、ふと、大好きだった祖父のお通夜のことを思い出しました。
高校2年生の時、祖父は逝きました。
喪失感、悲しみ、…こういったものが、何故か遠くへ行ってしまったようで涙も出ませんでした。心をからっぽにしてぼーっとしていました。
そのとき、ふっと、祭壇のお灯明がきれいだ、と感じたのです。
あの小さな小さな炎が、何故か、ふいに、きれいだと気がついて、はじめて、涙が流れました。
「こうちゃん」は、あの小さな小さな灯のようだ、と思いました。

大人になり、まあまあ普通の生活を送りながらも、時に苦しく、やりきれない思いにとらわれるとき。
いいものなんて何も見えない、見ようとも思わない、そんなとき、ふっと見えてしまう、かすかなかすかな温もりと明るさ。
それが、わたしには、こうちゃんじゃないかと思えるのです。だから、泣いてしまうのです。
灯を求めて求めて、あちこち捜していたときには決して見つからない、何もかも流れるままに任せて、暗闇でぺたんとすわりこむしかないんじゃないかと思うとき、突然、思いもかけず、ふっと見える灯。
まだ、こういうものに気がつく心の自分だったじゃないかと、少しうれしくなって。

須賀敦子さんの文章は、この本のほか、何も読んだことがありません。この文章が書かれた経緯も背景も何も知りません。
酒井駒子さんの絵は、あちらこちらで、ちらっと見かけたものの、特に気にかけることもありませんでした、この本に出会うまでは。
それでも、この本は、私にとっても大切な本です。
絵も、文も、空白の部分も、何もかも…決してばらばらにできない繊細な美しい調和。 明日の朝起きたらこの本は消えてしまうかもしれない、こうちゃんみたいに。