『ジョコンダ夫人の肖像』  E・L・カニグズバーグ

「何故、レオナルド・ダ・ヴィンチは、よりによって、フィレンツェの名もない商人の二度目の妻を描いたのだろう」という言葉でこの物語は始まります。
そしてすぐに、「その答えをこっそりにぎっているのがサライです」と続きます。

そもそも「モナリザ」=「ジョコンダ夫人」のあの微笑は何を意味しているのでしょうか。
そして、レオナルド・ダ・ヴィンチに愛された一番弟子サライというのは、レオナルド自筆の覚書によれば、「うそつき、どろぼう、強情、大喰らい」ということになっています。そして、付け加えるに、絵の才能は皆無に近かったようです。
こういう少年を自分の一番近いところに置いたのは何故だったのでしょうか。

レオナルドとサライが愛したミラノ公妃ベアトリチェ。常に「二番目」を意識せざるをえなかった短い人生を生きたこの女性は、しかし、内に秘めた輝きと、頭のなかに「目に見えないものさし」を持った女性でした。
「この花のなんと目立たないことか。私が調べているのは、この渦巻き状の葉のほうでした。あなたもお顔の目立たない花よりも、葉の構造を興味あるものにすることができませんか?」(レオナルド)

花開いていくベアトリチェとサライの不思議な交流。このふたりがこの物語の生きた主人公でした。レオナルドに生き生きとしたインスピレーションを与え続けることができたのは彼らの中にある奔放な輝きでした。
しかし、なんと魅力的な女性。しっかりと自分を持ちながら、毒もまた、ユーモアの殻に包んで、秘めている。
それなのに、サライのようにストレートに、その針を使うことができなかった彼女の育ちと立場とが、痛々しく、悔しくもありました。
こういうベアトリーチェだったからこそ、サライのなかに自分と同じものをみていたのでしょうし、レオナルドに足りないものがどこにあるか、見えていたのでしょう。

このサライの無責任な奔放さが、レオナルドという後世に残る芸術家を完成させるために、なんとしても必要であったこと、そしてレオナルドが描きたかったのは、この世のだれもが讃える美ではなく、内面の秘密めいた神秘的な(毒をも含んだ)輝きでした。

サライの目を通して、この物語を追っていくうちに、サライという青年も見えてくるのです。
確かに教養はない、小ずるいどろぼうであるけれど、愚か者ではなかった。良いものと悪いもの、(表面的な意味でなく)美しいものとそうでないものを見通す天賦の才を感じるのです。
そして、このサライの目を通してレオナルド・ダ・ヴィンチを見れば、彼は孤高の芸術家ではなく、繊細なひとりの人間でした。

物語のいちばん終わりに、その女性が現れたとき、この物語の仕舞い方のうまさに舌を巻いてしまいました。
「ジョコンダ夫人の肖像」というタイトルにかけられた謎の覆いがふわっと外れて下に落ちた、そんなイメージでした。

最後に、一読者としての興味ですが、
一寸小悪魔めいた現代っ子を一人称で書く作家が、何故イタリアの15世紀に題材を求めたのか、という謎の答えも本の中にみつかったと思うのです。
ことに表紙のサライ(といわれる青年の絵)の横顔の中に。