『なしの木の精スカーレル 』  ルイーゼ・リンザー

ソーニャ(9歳)とジーモン(10歳)の兄妹は、ある日、庭で梨の木の精スカーレル(ふたりがつけた名前)に出会います。
二人に、植物、動物、昆虫たちのいろいろなことを教えてくれるスカーレル。しかし、大人たちにはスカーレルは見えないのです・・・


登場人物が物語の中で演じなければならない役柄がはっきりしていて、厳格に守られているなあと感じました。
この本の中に出てくる人間たちは、それぞれ、あるグループの代表者のような感じです。
* ソーニャ = 素直にあるがままに物事を受け入れようとする子どもの代表。
* ジーモン = 目の前の不思議を、ちゃんと見えているにもかかわらず「子どもっぽい」と思い込もうとして、無理やり目をそらしている。背伸びした大人子どもの代表。
* 父さん = 忙しい大人。物を見る目はあるが、使いこなせない。静かに何もしないでいる時間を持つことが苦痛。ある意味病んでいる大人の代表。
* 隣のおじさん = 自分だけの(一時的な)利益しか考えない、何か問題が起こってもその場しのぎの対症療法しか講じられない。かなり重症の大人の代表。

虫ももぐらも鳥たちも、植物も、共存している。庭の中にいらないものなどないのだということ。
ある種の音楽を喜ぶ植物。愛情のこもった言葉掛けに答えて大きく開く花。 「なるほどー」と思いながら、…なんというか、固い角にごつごつとあたるような読み心地だったのです。
作者には伝えたいことがある。それを確実に伝えよう伝えようと誠実に書かれた文章だったと思います。たぶんそのせいで、ごつごつした舌触りが残ったのかも…

ソーニャと一緒に庭に座った父さんの言葉がちくりと痛いです。
「わたしが落ち着かないって。そうだね、たしかにおまえの言う通りだよ。こんなふうに何もしないで、庭にすわってるなんてこと、もう、とっくのむかしに忘れてたよ。今じゃ、何かしないではいられなくなったのさ」
彼は、娘と何もしないで3時間、庭にすわる約束をしたのですが、すぐに、むしらなければならない雑草が目につくし、これから会わなければらならない人のことを思い出し、鳴ってもいない電話の音が聞こえてくるのです。

最後に牧神パンが子どもたちにくれた贈り物が素敵でした。

植物への目にみえる栄養(水、光、土)と目に見えない栄養(愛情籠めた語りかけ)、これはすぐに私にもできそうです。
生きているものみんなに必要なことですよね。