『体の贈り物』 レベッカ・ブラウン

読み始めたとき、語り手である「わたし」が、ボーイフレンドの部屋を訪れる場面かと思った。
読み進めるうちに、「わたし」がどういう立場の人で、彼女が出会う人たちがどういう人たちなのか、わかってくる。
そして、11に章立てした物語、それぞれにつけられた「~の贈り物」という副題の、「贈り物」の意味もわかってくる。誰から誰への贈り物なのかということも・・・

「わたし」は、ホームケアワーカーとして、やがて死んでいく人たちの身の回りの世話をする。

これは、感情を排してだだ事実だけを記録したドキュメンタリーではないか、本当に小説なのか、と思った。
「わたし」の側で起こったこと、「わたし」が実際やったことだけを事実としてだけ描き続けていく文章。
それなのに、行間から、いろいろな思いが、その人の人生に対する姿勢があふれ出てくる。
痛々しい、力づけられた、切ない、つらい、温かい、など、どの言葉も少し違っているような気がしてくる。
ここにある人たち・・・最後まで人間としてあろうとすることへの畏れだろう、か? そして、自分もまた人間として、友として、彼らに向かい合う「わたし」への?・・・うまく言えない。

「涙の贈り物」と「動きの贈り物」のエドに、ことに惹かれた。
彼の痛ましいまでの(あるいは気分悪くなるほどの)気位の高さに。虚勢であれ何であれ、彼は「スー・パー・エド」だった。

また、「姿の贈り物」
「私自身は正しいことを感じたり考えたりできなくても、とにかくこの人は食べ物を与えられているし、シーツも換えてもらっているし、キッチンを掃除してもらっているし、体に軟膏を塗ってもらっているじゃないか」
という一文は、きつかった。自分の日常の中で表に出さないように気をつけている本心に、突然明かりを当てられたようでどきっとした。

良いことわるいこと、美しいこと、醜いこと、ユーモアも惨めさも…いろいろなことを全部ひっくるめて、
生きることの気高さ、懸命に生きて死んでいくことの。
見せてくれたこと、そして、真剣に贈り物を手渡してくれたこと。
ただ、ありがとうと言いたい。贈り物をもらったよ、と静かに。