ボート

ボート (新潮クレスト・ブックス)ボート
ナム・リー
小川高義 訳
新潮クレスト・ブックス


短編7つ。
どれも、舞台は全く違う国の、全く違う文化・価値観のなかに生きる、性別・年齢も違う主人公たちの物語。
どこにも共通点がないばかりか、あまりに多様すぎて、しかもその背景たるやドラマチックすぎて、ばらばらな印象を受けます。
共通するものがあるとしたら・・・その物語の閉じ方です。
一つ一つの物語を最後まで読んできて、登場人物やその風景にもなんとなくなじんできたところで、凍りつかせるような終わり方です。
それまでなじんできたものがいきなり他人の顔に変わってしまうのです。
まるでこちらの無邪気な信頼をぐしゃりと握りつぶされたような気がする。
それなのに後味が悪いわけではないのですよねー。
どの物語も主人公たちは、もしかしたら、語り手にすぎない。
何かの観察者にすぎない、ような気がしてきました。
最後にはもう、私の目は、主人公から離れてしまう。
別の人を見ています。
消えてしまった信頼・・・見事に裏切ってくれた風景や人の、肩を張った姿の内側には言葉にならない悲しみが篭っているような気がして。
振り返ることさえも拒否するような壮絶な葛藤があるような気がして。
起きたことよりも、彼らのなかにあるその葛藤だけがまちがいなく真実であるような気がして。


ヒロシマ」という作品は、その名のとおり、日本の広島が舞台です。
登場する人たちもその時代の純粋な日本人たちで、その風景も、固有名詞も、習慣なども、なんと馴染み深いものでしょう。
この作品を英語圏の人が書いたのか、と思うと驚いてしまいます。
だけど、そうは言っても、やっぱり細部に不思議なずれがあるのです。
あれほどに日本の山里の風景や人々をしっかり映しているから、余計に些細なことがめだってしまうのです。
そして、これは日本じゃないよ、と思う。
日本にとてもよく似ているけれど、日本ではないどこか。
パラレルワールドヒロシマです。
なあんだ、パラレルワールドヒロシマなのねー、と思えば、安心して、物語に入っていくことができる。
そう思うと、きっと、この本のどの物語の背景もみんなパラレルワールドなんだろうなあ、と思う。
コロンビアの裏町も、テヘランの祭りも、太平洋を漂うベトナム発のボートも・・・。
それらは、実際の場所とはきっと何も関係がない。
似ているけれども。
背景はパラレルワールドですが、登場人物たちの感情は、人としての確かな手ごたえを感じます。
彼らがひきずってきた人生にもまた手ごたえを感じます。


決して見せることのない何か。一生忘れられないけど、きっと一生言わないだろう何か。
誰かのそういうものを垣間見たような気がしています。
気がします、と書いたのは、この物語の終わり方のせいです。
ドラマチックな終わり方はしないのです。
今、はっとしたことをかき消すように、すべてをあいまいにぼかして終わります。
「あれ、ほんとはなんだったの?」と思わずつぶやいてしまうような終わりかた・・・
どうか記憶になんかとどめないで欲しい、できれば忘れて欲しい、
だって、ほら、背景をみてごらんよ、こんなに濃い背景のなかでは、そんな小さなこと、どうでもいいんだよ、そうだろ。
そんなふうに言われているみたいです。
一話「愛と名誉と哀れみと誇りと同情と犠牲」のなかで、作者(がモデルと思われる青年)が自嘲的につぶやくあの言葉
「まあ、お話だからね」「あくまで小説」
でも、忘れないよ、ちらり仄見えたもの。7つの短編のどこでも見せられたそれのこと。
それは、単に、お話ではないということ。