星投げびと―コスタベルの浜辺から

星投げびと―コスタベルの浜辺から星投げびと―コスタベルの浜辺から
ローレン・アイズリー
千葉茂樹 訳
工作社


ジェリー・スピネッリ「スター・ガール」のアーチーにはモデルがいる、と聞いたときは、びっくりしました。
「スター・ガール」の献辞は「ぼくらが何者で何になろうとしているのかを教えてくれたローレン・アイズリーに」になっています。
ローレン・アイズリー。わたしは名前さえ知りませんでした。
ただ、「スター・ガール」のアーチーがとても素晴らしい人だったから、彼の世界が飛び切り素敵だったから、
もう一度アーチーに会いたい、と思ったのが、この本「星投げびと」を手にとったきっかけだったのです。
おかげで、思いもかけない宝物に出会えたのでした。教えていただき、本当にありがとうございました。


訳者によれば、
「人類学、科学史、考古学に古生物学といった自然科学の幅広い領域に深く通じている科学者である上、哲学や文学にも並外れた知識を持ち、自ら詩人でもある」
ローレン・アイズリー博士。
博士の文章は、ほんとうに美しいです。静かで深みがあって。
安心して、言葉の海に漂っていけます。
読んでいると、なんだか宇宙のまんなかにたった一人で漂っているような気がしてくるのです。


タイトルの「星投げびと」は、この本に収録されている20のエッセイの中のひとつです。
浜辺に打ち上げられて、そのまま死んでしまうかもしれないヒトデを海に投げ返している人がいる。
その人との出会いから、アイズリー博士の思考は遠く宇宙の果てまで、時間の果てまで、旅するのです。

>私はまた別の星(ヒトデ)を拾って投げた。ひょっとしたら宇宙の縁のはるか外でも、本物の星がおなじように拾いあげられ、ほうり投げられているのだろう。わたしは自分のからだのなかに、その動きを感じることができた。それはまるで、種まきのようなものだ。無限大に巨大なスケールでの生命の種まきなのだ。
アイズリー博士は、星を見る。
石を見る。
骨を見る。
浜辺に流されてきた朽ちた犬の死骸を見る。
影のように走り去るきつねを見る。
小鳥のえさ台から食べものを失敬するリスを見る。
真夜中の隣家の明かりを見る。
ただ見るのではない。博士の研ぎ澄まされた感性は、時を超え、空間を超え、果てしない彼方まで飛ぶ。
そこまで、わたしたちを引き上げようとしている。
物言わぬものと思っていたたくさんのものたちが本当はどんなに雄弁に語っているのか、わたしたちのまわりにはなんて多くの素晴らしい教師がいることか。
聴く気がなければ聞こえない、見る気がなければ見えない、感じる気がなければ感じられないのだ、と知りました。
今まで気がつかずにいたものたちの声を、姿を、気配を、メッセージを、アイズリー博士の言葉から感じるのは、なんと心が豊かに広がる体験でしょう。


そして、気がつけば、きつねもリスも、死んで朽ちていく犬も、それから浜辺から虹を越えて星を海に投げ返している人(=星投げびと)も・・・
すべてアイズリー博士その人の姿に変わっていくような気がしました。
ものを見ることも感じることもつきつめれば、鏡の中の自分自身を感じることなのかもしれません。

>明日は私たちのなかに潜んでいる。かつて達成されたことのないあらゆるものになりうる潜在物として。それこそが、夜と昼とがマンモスの雄叫びやトナカイの行進などの奇妙で奇跡的なもので満ちていた五百万年前に、原生人を旅に誘ったものなのだ。それこそが、時間の曙に洞窟を絵で飾らせたのだ。そして、それこそが、人間にクマを崇拝せしめたのだ。それゆえに、人は本能の安全な世界から脅威に満ちた場所へと足を踏みだしたのだ。

>自然の家のなかには、どの戸棚のなかにも化け物がいる。だからこそ、自然の子どもである私たちは、根っからのロマン主義者なのであり、自然を訪なうのだ。

読後のこのどきどきは、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」に出会ったときの感動にちょっと似ています。
大切に大切に一章ずつゆっくりと読みました。
図書館で借りた本ですが、これは手もとにほしい。何度も何度も読み返したいたくさんの言葉があるから。
本当はね、美しい言葉と余韻にとってもよい気持ちになっていますが、あまりに深いたくさんのメッセージをちゃんと租借できたといえないのです。
だから、言葉を心に留めながら、何度も何度も繰り返し繰り返し、本を開きたい。