ボクシング・デイ

ボクシング・デイボクシング・デイ
樫崎茜
講談社
★★★+


小学四年生の栞は、「ち」と「き」の発音が上手にできない。
そのため、決まった曜日の決まった時間になると教室の授業を抜けて、「ことばの教室」に通っていた。
「ことばの教室」の佐山先生の
「わからないことにぶつかったら、その場でいったん歩みを止めて、じっくり考えるんだよ」
という言葉そのままに日々を過ごす栞は、感じやすく、考え深い少女。
友だちの言動も、そこに篭るその子の思いも注意深くゆっくりと自分の中で咀嚼しようとします。
学校のシンボルツリーであるセコイアの木が、伐り倒されることに決まったときにも、
レオ・レオーニの「スイミー」に対する気持ちも、
学校で飼育されている鹿のピーターに対する気持ちも、自分のことも、時間をかけてゆっくりゆっくり考えます。
激しい気持ちはひとつもなくて、静かに、自分の身のまわりのことに思いをめぐらし、
嫌なことも辛いことも、まずおだやかに受け止めて、意味を探しながら、成長しようとしています。
その栞中心に語られる子どもたちの日常が、陽だまりのように温かく、やさしいのです。
お互いの傷に触らないように気をつけあうその優しさが、逆にわたしには歯がゆく思えて仕方のないときもあるのですが・・・。


「ボクシング・デイ」というのは12月26日のことだそうです。
事情があって同じ日にプレゼントを開けることができない子が、一日遅れでクリスマス・プレゼントを開ける日なのだそうです。
わたしたちみんなたくさんのプレゼントをもらって地上にやってきたのかもしれません。
でもそれを開ける時期は人それぞれで違っているのですね。
なかなか、みんなと同じように発音できるようにならない栞に佐山先生が言った言葉なのです。
早い子も、遅い子もいる。それはたいした違いではないのだと。
そして、毎日が同じにすぎていくように思えても、日々はプレゼントを開ける連続なのかもしれないというのです。
佐山先生が栞に残したたくさんの名言のひとつ。
「先生が思うしあわせはね、いろいろなものが過不足なく、きちんとあることをいうんだ。悲しみも、歓びも、不安も、たのしいことも、苦しいことも、好きなことも、嫌いなことも、そのどれもが負担にならない程度にある状態こそ、しあわせなんじゃないかってね」


なんでもない毎日のあれこれが大切なことに思えてくる。
意味がないものなどない。
その日そのとき出会うできごとのどれもが大きな箱、小さな箱に入れられたプレゼントの箱かもしれないのです。
(でもラッピングはあまり仰々しくないほうがいい。)
そして、箱を開けるたびに表れるものにもっと気をつければ、見えるもの、聞こえる声があるのだろう・・・
ああ、もっと丁寧に丁寧に・・・と呪文のように唱えています。
言葉のないものたちのささやきを聞こうと、じっと耳を傾けるこの子たちに、忘れていたものを思い出したような気がします。
こどものときのような時間の使い方を忘れかけていました。


この本の子どもたちは、穏やかで丸くて、ひとつもとんがったところがありません。
それぞれにそれぞれの事情もありそうですが、さらりとしていて、物語はそこに切りこもうとはしません。
波風のたたない子どもたちの輪を眺めているうちに、
波風がたたないからこそ、この静かな陽だまりの外で吹いている風に自然と目がいきます。


それは、大人が起こす風です。
栞が舌足らずなしゃべりかたを克服したいと思うのは母がそのことを自分以上に気にするからだといいます。
セコイアの木が伐られることに決まったのは大人たちの事情です。
大きくなりすぎて避雷針より高くなってしまいそうだから、と言いながら、ほんとうは別の理由もありそうな気配です。
プルタブを集めて病院に車いすを送ろう、という活動をしている奉仕委員たちの活動の今後のことも、
大人たちの事情で存続をやめると言ったり、続けると言ったり・・・


子どもたちって非力で、大人の意向によりあっちにころがされこっちにころがされ、そのなかでなんとかやっている、
という感じを受けました。
「わからないけど、大人って子どもに全部話してくれないでしょう? だから、今回もそうなのかもしれない。黙っているだけで、本当はほかにも理由があるのかも」
というゆきちゃんの言葉がよみがえります。
そして、いつも佐山先生がくりかえしていた「さあ考えてごらん」という言葉もまた思い出すのです。
だから、なんだ、というわけではないんだけど、がんばれ子ども、と言いたくなります。
いっぱい見て聞いて、それから考えて、大きくなれ、と。


大きくなった栞が、母校を訪れる場面は、ちょっとしんみり。
なにもかもが昔のままの校庭。昔、そこにいた、あの子もこの子ももうとっくに大きくなってどこかに行ってしまった。
だけど今も、あの時のあの子やこの子によく似た子がいて、よく似た先生が、きっといるにちがいない。