痴呆を生きるということ

痴呆を生きるということ (岩波新書)痴呆を生きるということ
小沢勲
岩波新書
★★★★


今では、痴呆という言葉が認知症という言葉に変わりました。
この本が出たときはまだ「痴呆」という言葉を使っていました。
家族にこの病を患うものがいて、その介護が必要になったとき、ネットでお世話になっている方に紹介してもらった本でした。


介護の立場から書かれた本はたくさん出ています。
さまざまな状況や立場に応じて、
こういう行動・言動に対してはこのように手を打つべし、という対症療法的な手立てについて書かれたマニュアルはたくさんありますが、
この本は、そういう本ではありませんでした。
認知症を患った人の心のありようにまっすぐ迫ろうとしていました。


脳医学から「痴呆」というものをどう捉えるか、ということについての説明もわかりやすかったです。
一概に、「痴呆(認知症)」というものの、脳障害から「中核症状」と「周辺症状」と呼ばれる症状があることを知り、
老人の不都合は、たぶん「中核症状」に起因しているのではないか、
なのに、家族の対応は「周辺症状」にばかり焦点をあてて場当たり的に行動してしまうことが多いように思い至りました。
そのために老人と介護者の思いはすれ違ってしまうのかもしれません。そのためにきしみが生じるのかもしれません。


介護者として、家族として、でも、その前に1人の人間対人間として、今日もこれからもつきあっていく姿勢について、
やがては、わたし自身がどう生きるか、ということまで、深く思いをめぐらすことができた、と思います。


たとえば、ものさし一つ、小さなツメきり一つに対する(傍目には異常なまでの)こだわり。でもこのこだわりに対して、

>老人にとって、ものには人生がつまっているのである。
ということに思い至ることができるか・・・それを汲み取ることができるか・・・
著者は、さまざまな人生を照らしてみせてくれました。
そこに垣間見える生きることの愛しさ、苦しさ、気味悪さ・・・


評論文ではありましたが、小説を読むような揺さぶられ方を何度もしました。
それは、この本が「痴呆」という症状を通しながら、表面をなぞるのではなく、
それぞれの人間の心のありようや人生を照らそうとした姿勢のせい、と思いました。
痴呆・認知症という言葉でひとくくりにできないそれぞれのかけがえのない人生があるのです。
耕治人私小説をひきながら「痴呆老人」の姿を照らし出そうをした第二章はことに心に残ります。


そして、介護、行政、福祉、という言葉やマニュアルにしがみつくことの空虚さ。
たとえ、正しく行動できたとしても、その心根が貧しかったら相手をこのうえなく傷つけていること・・・
強者対弱者、上対下、というような気持ちに自分もまたなっていないだろうか、と反省をこめて読んだものです。
常に介護者と老人が同等の人間であることを忘れないようにしないと。
自分の中から、さまざまなものが失われていく漠然とした不安を救い上げるような寄り添い方をするには。
ううん、実際の行動ではないにしても、そんな気持ちで暮らすことができたら。忙しい忙しいで過ぎ去るだけではなく。


>痴呆のケアにあたる者は、痴呆を生きるということの悲惨さを見据える目をもたなければならない。しかし、その悲惨を突き抜けて希望にいたる道をも見いださなければならない。
これはきれいごとではありません。
あとがきで告白された今の著者の立場・・・肺癌の病床からの発信は著者の遺言のように聞こえました。


(日々は忙しく、不安定で、こちらの気持ちも決して安定してはいないのですが、
あなたとこのように関わることができたことを良い気持ちも悪い気持ちも含めて、わたしはいつかきっと感謝すると思う。)